色川ってどんなところ?

美しく懐かしい風景と、あたたかな人のつながりが残る里

山里、口色川の風景
色川地区に9つある集落のうちのひとつ、口色川区の風景

紀伊半島の南東部、和歌山県那智勝浦町の山里、色川。

世界遺産・那智山の西側に位置する自然に恵まれた集落です。

どの交通機関を利用しても時間がかかり、町の中心地からも車で山道を40分ほど。

陸の孤島と称されるほど利便性とはかけ離れた場所です。

しかし、きっと、だからこそ、

石垣の美しい棚田や昔ながらの暮らし、

あたたかな人のつながりが残っている地域です。


色川郷の起こりは約1000年前。平維盛伝説も残るなど歴史ある場所

「那智勝浦町史」によると、色川の起こりは646年、あの「大化の改新」の翌年、大化2年とされています。

「色川郷18ヶ所村」として、現在色川地区として区分けされている9集落に加え、現在の大田地区や古座川町に区分される地域も色川郷として記されています。

山奥の村としては比較的早い時期に里が成立したのは、信仰の地・那智山が関係しています。

那智山が開拓されたのは6世紀頃のこと。

そこから色川方面に開拓が広がり、人々が住み始めたと考えられています。

色川にはいくつかの伝承が残っていますが、そのうちもっとも有名なものが、平維盛伝説です。

平維盛は、平清盛の孫で、簡単に言えば平家一門の跡取りであった人物です。

「平家物語」によると、富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦いで壊滅的な敗北を喫した後、

屋島にて戦線を離脱して熊野をめざし、那智沖で入水自殺したとされています。

色川に残る伝承によると、その自殺は見せかけであり、再度上陸したのち色川郷に入りひっそりと暮らしたと言われています。

あくまでも、伝説の域を出ない話ではありますが、

色川地区のひとつ大野区には平家の家紋である揚羽蝶の描かれた旗が伝わっているなど伝承に信憑性を感じさせる文化財も残されています。

個人的には、きっとそうだったのだろうなと考えたいですし、

維盛自身が生き延びたのではなかったとしても、

何かしらの縁ある人物が色川で暮らした歴史があったと考えたほうが妥当なのではないかなと思います。

このような伝説が残るということは、

それくらい古い歴史を持ち、戦で京都を追われた平家の末裔を匿うような、

やさしく芯のある人々が暮らす里であったということは事実なのではないでしょうか。


色川と移住の歴史

移住者の子どもたち

和歌山県における移住の歴史を語る際、その発祥の地といわれるのが色川です。

最初の移住者(当時は入植者と言ったそうです)が色川を訪れたのは、約40年前のこと。

色川でどのように移住者が受け入れていただいてきたか、その歴史についてはまた別途記事にさせていただきたいので割愛しますが、現在色川地区の総人口は約320人のうち新規定住者は170人と、人口の半分が新規定住者で構成されています(2019年9月現在)。

よい悪いで評価できることではないと思いますが、現在里を存続していくうえで、移住者が一定の役割を担っていることは確かなのではないかと思います。